トップ館長コラム談話室(6)

館長の談話室

談話室(6)

コロナの収束を心待ちにしている最中、2月13日に大きな揺れが来ました。
被害に遭われた方にお見舞い申し上げるとともに、一日も早く復旧出来ることを祈ります。

再び、全身がキュッと縮こまるような、あの怖さが襲います。
コロナ自粛疲れの身体がさらに重くなるような気がします。
いけない、いけない・・・。
こんな時こそ、心が潤うようなこととの出会いが必要です。

おかげさまでコミネスは、揺れの影響も特に無く、そして、しっかりしたコロナ対策をして公演事業を続けています。
1月には、桂宮治さんの落語会、康本雅子さんのダンス公演「子ら子ら」、2月には世界的テノール、フランチェスコ・メーリ氏のリサイタル、そして風間杜夫さんの独演会と公演を行ってきました。
多彩な演目をお届けしながら、無事に公演を実施できることに感謝し、そして少しでも皆様の心のオアシスになれればと願っています。

 

10年前の3月11日、他の地域にいた者があの日のことを語るのは、憚られる気がずっとしています。
けれど、あれだけ巨大な揺れの影響は、もちろん広い範囲に及びました。
10年たった今、少しだけあの日のことをお話しさせていただきたいと思います。

私は東京近郊のある劇場で、翌々日の宮城県内公演を皮切りに、それから1ヶ月に及ぶ東北巡演が始まる演劇公演の舞台稽古の真っ最中でした。春の東北を訪れることを、俳優もスタッフも心待ちにし、良い舞台を持っていこうと意気込んでいました。福島県内の公演も数カ所予定されていました。
演目は再演のものでしたが、すでにいくつもの演劇賞をいただいた自信作でした。
本番と同じように装置も組み、照明も音響も、そして俳優たちの衣装もメイクも全て揃った状態で、熱のこもった最終稽古を行っていました。
・・と突然、舞台上空の照明機材が揺れだし、間も無く機材同士が激しくぶつかり合ってガシャガシャと不気味な音をたて初め、全員慌てて舞台そでに逃げ込みました。
そこからは、もう立っていられないほどの揺れになりました。
搬入口から外を見ると、電柱がムチのようにしなって揺れています。
やがて、楽屋のテレビには次々と映像が映し出されました。
初めは観測用の定点カメラの映像でしたが、徐々に報道の映像が流れ始め、そこには、翌々日に訪れるはずの街のただならぬ様子が映りました。
それからはひたすら、東北の無事を必死に祈る沈黙の時間が続きました。

数時間後にはその会場は、交通手段を失って帰れない「帰宅困難者」を受け入れ、客席も、ロビーも、ご自分の上着をかぶって仮眠する人でいっぱいになりました。
平常時ならば小一時間の距離を6時間以上かけて劇団の車がメンバーを迎えにきました。そして最後のメンバーを送り届けた時には夜が明けはじめていました。スタッフたちは楽屋に泊まりました。
翌日、関東でも余震が続く中、行き場を無くした舞台装置を、黙々と片付けてトラックに積み込みました。

演劇人にとって、演出家にとって、舞台は、手塩をかけてたくさんの時間と思いを込めて生み出した「息子・娘」のようなものです。そして「公演」は、その子を初めてお披露目する場所です。
けれど世に出してやれない子を抱きしめながら、その運命をじっと受け入れるしかありません。
こんな苦しさは、初めてでした。
もちろん、被災地の皆さんとは比べものにならない小さな苦しみですが、これが、10年前のあの日の私の経験です。

 

ところが、あの理不尽な辛さを忘れかけていた昨年春、再び同じ経験をしました。
たくさんの時間をかけて準備をし、日夜稽古を重ね、明日はいよいよ初日の幕が開く!という日に、コロナによる緊急事態宣言で公演の中止が決まりました。全身から力が抜けるように床に座り込むしかできませんでした。そして次々と、準備をしていた数ヶ月先の演目も中止になりました。お披露目できなかったお客様の数は何万人になります。

同じ経験を幾度も重ね、たくましくなるしかありません。
もちろん、本当に今、生み出すべきなのかどうかも考えます。
けれど悩んでいても、正解は誰にもわかりません。
ならば、せめて誰かに届くように発信していたいと思うのです。
何があっても、どんなことがあっても、前を向いていたい、舞台を作り続けたいという思いだけは、絶対に失くしません。

コミネスが様々な舞台を届けられる日々に感謝しながら、元気に進み続けていきたいと、想いを新たにする季節です。