トップ館長コラム談話室(10)

館長の談話室

談話室(10)

劇場の座席に座って、いざこれから体験する音楽会や演劇などを待つ、心地よい緊張感とウキウキ感に浸っているとき、事務的かつ紋切り型で無粋ともいえる、そのうえかなり長い「開演前アナウンス」を耳にして、気分がそがれてしまったという経験をお持ちの方は、実はかなりいらっしゃるのではないでしょうか。

劇場を運営する立場としても、何をどの程度、どうやったらお邪魔をせずにお伝えできるのか、実は相当悩ましいのがこの「場内アナウンス」です。

「本日はご来場いただき誠にありがとうございます」からはじまり、そのあとに「開演に先立ち、お客様にお願い申し上げます」「お手元の携帯電話、スマートフォンなど、音の出る機器をお持ちの方は必ず電源をお切りください」と続き、場合によっては「マナーモードも他のお客様のご迷惑になる場合がありますので、必ず電源からお切りください。」と加わる場合もあります。

「開演中の録音・録画は、法律上で固く禁止されております。」というものもあります。
また「地震の場合は、お席にてお待ちいただき、係員の誘導に従って下さい」や「演出の都合上、上演中は非常灯を消灯いたします。お近くの非常口をあらかじめご確認ください」という案内が入ることもあります。

さらに昨今では、「新型コロナウイルス感染予防のため、場内では必ずマスクを着け、声援や会話などはお控えくださいますようお願いいたします。」や、更には、「終演後は分散退場にご協力いただき、係員の指示があるまではお席にてお待ちください。」と、とにかく、盛沢山の注意事項と案内が延々とアナウンスされます。

開演直前の数分間は、観客にとっては期待に胸躍らせる貴重な時間ですし、演奏者や俳優・演出家にとっても、大切なナイーブな時間です。そのデリケートな時間と空間が、事務的な注意事項で埋め尽くされるのは、なんともやるせない気持ちになります。

実は、この風習は、ほとんど日本独自のもので、海外の劇場ではまず耳にしたことはありません。(コロナ禍以前ですが)安全基準はほとんど同じはずなのに、世界中どこの劇場でも、こんなに注意事項だらけのところはおそらくありません。ロンドンのウエストエンドの劇場では「まもなく開演です。」だけです。それは、開演前や休憩中にワインやシャンパンを飲む風習があるため、ロビーにいるお客を促すためです。ニューヨークのブロードウェイでも、既成のアナウンスはなく「ようこそ〇○へ!! 素敵な時間を楽しんでね!!」のような個別のアナウンスの場合が多いです。

なぜ日本の劇場だけ、こんな、まるで子供に言い聞かすような懇切丁寧な場内アナウンスになってしまったのか・・・。

主な理由は二つあると考えます。
ひとつは劇場側が、「来場した方の安全を守る」ということへの責任感から、神経質なまでにすべてをお願いしてしまうということ。そして、もうひとつは、実は残念ながら、意外なほど観客マナーが浸透していないことだと、私は思っています。

演奏会のすばらしい楽器の音色の中で、なぜか携帯の着信音が聴こえます。演劇の肝心かなめの静かなシーンで、飴の包装紙をむくカシャカシャという微かな音が響きます。マスクをしているから平気と言ってそのまま大きな咳やくしゃみをします。お隣と小声で話します。法律に触れるとわかっているのに、隠れて録音や録画をする人がいます・・・。なぜなのでしょう・・・。

「このくらいなら」「自分だけなら」「だって個人の自由でしょ」と思うのなら、劇場という公の場所には向いていないかもしれません。

劇場は、「舞台で針が落ちる音も聴こえる」ほどの音響のための設計がされています。着信音や、飴の包み紙や私語は、劇場機構によって増幅され、全客席に、ときには舞台上にまで響き渡ります。咳やくしゃみはしかたないかもしれません。けれど、せめて、口元をふさいでほしいのです。録音・録画に至っては、裁判にもなりかねません。

ほとんど「社会ルール」ともいうべきことが守れない限り、残念ながら日本は、「文化後進国」だと言わざるを得ないのです。長い「劇場鑑賞」の歴史を持つ国々では、当たり前のこととして観客マナーは根付いています。

「一日も早くコロナ禍が終息して、のびのびと舞台芸術をたのしんでいただきたい!」とすべての劇場が願っています。

晴れて通常に戻って開幕できたとき、心からお互いに喜び合い、思う存分楽しみたいと願い、そしてその時こそ、今一度お互いに「観客マナー」を確認しあい、いつの日にか「間もなく開演いたします」だけで開演できる日が来ることを夢見ています。